イエス キリスト

横川法語について(1)

永劫回帰のような・・・

横川法語について(1)

横川法語

それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。
身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。
世のすみうきはいとうたよりなり。
人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。
このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。
信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。
念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。
功徳莫大なり。
此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。
また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり
臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。
妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。
妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。

「妄念」ということですが、
生まれつきの心が「妄念」なわけで、
「妄念」「妄念」といっても、
それが人間の本来の心なわけで、自然なものなんです。

そうそう、嫌うことはないと思います。

仏教は、とにかく修行して
「妄念」を正していかなければならないのであって、
仏になれるまでは、
常に不全感を持って生きていくわけです。

つまり、心の安らぎが無いのです。

が、人間は人間としての完成品なので
もっと堂々としていてもいいと思うのです。

横川法語では、
死後は極楽に行って「妄念」をひるがえして「悟りのこころ」にすることができる!
ということをもって、
今生は、「妄念」は「妄念」のままで気にせず生きていこうというわけです。

だから、
わたしとしては此処が気に入らないのです。

キリスト教の場合
「原罪」ということを言いだして、
やはり、
生まれたままの完成品としての人間を否定しています。

が、が、
イエスキリストは、
「子どもが天国に入れる」
といっていまして、
つまり、生まれたままの人間本来の姿であればいいといっているわけです。

ということで、
私としては、
このことにかんしては、
イエスキリストの教えが一番気に入っています。
というか、
一番正しいと思っています。

人間は、人間としてあるべき姿で生まれてきているので
そのまま生きていいのです。
ただ、
生きていくうえで、いろいろと影響をうけて
本来の自分を失っていくのです。

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[ 2012/07/16 21:53 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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