わたしは、初めてグノーシスについて読んだとき、ひどく感動して、
そのあと、関係した本を数冊読んだりしました。
キリスト教がグノーシスを弾圧したので、
なんとなくヤバイ思想のようなイメージがありますが、
心の優しい人なら、当然グノーシス主義者になると思うわけです。
なぜなら、
旧約聖書の神があまりにひどいからです。
他の民族の虐殺を命じたり、
あるいは自らが人類の絶滅を図ったりと、
普通の人が考えれば、なんともひどい神様だと思うはずです。
で、
この神は、神ではあるが、低級な神だ。
どこかに、本当の、至高の神様がいるはずだ。
というところから、グノーシスは始まると思います。
旧約聖書は、ユダヤ人の神話ですから、
自分たちのした侵略行為を正当化する内容になっているわけです。
とうぜんながら、真の愛なる神をあらわしてはいません。
本当の神様なら、そういうことはなさらないはずなんですが、
聖書には、いろいろ神らしくないことが書いてあるわけです。
わたしなら、あれは神話だから で、済ませられますが、
昔の人は、真剣に考えたんでしょうね。
酷い神なんだが、なんとかいい神と思いたいと苦労した人と、
あっさり、そんな神は真の神じゃないと断言した人に分かれます。
で、わたしは、
聖書を読んでも、本当の神は分からないという考えです。
とくに旧約聖書なんて、読む価値はないですね。
いや、
詩篇とか、箴言とかは、いいこと書いてあります。
で、話が飛びますが、
浄土信仰もグノーシスです。
「父子相迎」を考えなければ、
マルキオン主義に近いかもしれません。
とにかく、この穢土への未練を捨て、
極楽国土に行きたいと思うことが、心の中に光の粒のあることの証明です。
弥陀の力で、プレーローマに引き上げられます。
南無阿弥陀仏
これが、自然法爾でしょうネ。